江戸の運河③ 清澄庭園の歴史と亀
先輩、後輩、同期、自分の4人で清澄白河散策中。冷たい雨がパラパラと降っています。
「ステンレス部分は大変熱くなっています」
「苦笑」
「夏のが残っているから、しょうがないですね……」
冷えっ冷えでした。
2019年10月6日(日)13時15分
趣深い庭園に感嘆。
「そういえばわたし、写真に写ったものが何か教えてくれるアプリを入れてみたんですよ!」
と言って、読み取った結果を見せてもらうと、そこに表示されていたのは……
いや、知ってるわ!!
もう少しあるだろ情報!!
「岩に擬態してますよ、あいつら」
「なんていう鳥だろう?」
「よーし、今度こそ……」
と言って、再び読み取った結果を見せてもらうと、表示されたのは……
見ればわかるわ!!!
そういうこと聞きたいんじゃないんだよ!!
立派な松を鑑賞したあとは、亀と戯れました。
すいー
水をかきわけて……
ぴたっ
ばいばーい
わたし、イヌネコ全然好きじゃないんですけど
水族館と牧場にいる動物しか好きになれないと思っていたんですけど
めっちゃカメかわいいなと思いました。将来飼う予感がしました。
ぼーっとしてたら見過ごしそうな小高い丘の前に立ち止まりました。
「これ、富士山です!」
たしかに、パンフレットには
富士山
この庭園で最も高く大きな築山(つきやま)。関東大震災以前は、この築山の山頂近くには樹木を植えず、サツキやその他のツツジ類の灌木類を数列横に配して、富士山にたなびく雲を表現したものだと言われています。
と明記されていました。
江戸後期に流行った富士山信仰は「富士講(ふじこう)」と呼ばれました。富士山に行きたいけれど遠くて行けない東京(品川など)の人が「いいなー富士山ー」といって富士塚をつくりました。
《 清澄庭園について 》
一説には江戸の豪商、紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられています。享保年間(1716~1735年)に下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部と茨城県の一部)、関宿(せきやど)藩主 久世大和守(くぜやまとのかみ)の下屋敷となり庭園のもとが形造られました。
明治11(1878年):三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎がこの庭園を買い取る
明治13(1880)年:「深川親睦園」として開園
大正13(1924)年:関東大震災
大正13(1924)年:震災被害の少ない東半分が岩崎家から東京市に寄付される
昭和7(1932)年:復旧、整備され「清澄庭園」が東京市の公園として開園
昭和20(1945)年:大空襲時の避難場所になり多くの命を救う
昭和52(1977)年:庭園の西側に隣接する敷地を開放公園として追加開園
昭和59(1979)年:東京都の名勝に指定される
パンフレット参照
確認を取っていないし、文献を読んだわけでもないので、詳細は不明ですが、この築山も富士講に関係がありそうだなぁと思いました。
一般人は1977年まで清澄公園に入れなかったという事実を知ると、のんきに東屋でコトリパンを食べれたことへのありがたみが増しました。2019年に生きていてラッキーです。
▼ 今回歩いた道です。Dのところ。